『死の島』

ラフマニノフは1909年春に、スイスの画家アルノルト・ベックリンの同名絵画の複製画に着想を得て、交響詩『死の島』を作曲します。

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同年の夏にはイワノフカの別荘で、秋に予定されていたアメリカへの演奏旅行のためにピアノ協奏曲第3番を作曲しました。

アメリカではピアニストとしてこの作品を初演し、その数週間後にはグスタフ・マーラーとも共演します。また、1912年10月のイギリスでの演奏旅行では、この作品でウィレム・メンゲルベルクとも共演しました。

グリンカ賞受賞

ラフマニノフは1904年から1906年初めまでボリショイ劇場の指揮者を務めました。

神経を集中して指揮に取り組んでいたため、楽員には気難しくやかましい指揮者と恐れられたそうです。1906年1月には自作のオペラ、『けちな騎士』と『フランチェスカ・ダ・リミニ』を初演しました。

同年秋から1909年にかけて家族とともにドレスデンに滞在。

このドレスデン滞在中の1907年に完成させた交響曲第2番は翌1908年の1月にペテルブルクで、2月にモスクワで作曲者自身の指揮により初演され、熱狂的な称賛を以て迎えられました。

この作品で、ラフマニノフはグリンカ賞を受賞しています。

ナターリアに捧げる

やがて創作への意欲を回復したラフマニノフは、1900年から翌年にかけ

「2台のピアノのための組曲第2番」と「ピアノ協奏曲第2番」という二つの大作を完成させます。

特にダーリに献呈されたピアノ協奏曲第2番は作曲者自身のピアノとジロティの指揮により初演されて

大成功を収め、これによってラフマニノフは大作曲家としての地位を確立することになりました。


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そしてその翌年、従妹であるナターリア・サーチナと結婚します。

ナターリアとの結婚式が行われた4月に作曲した「12の歌曲集」作品21のなかには、

妻に捧げた「ここは素晴らしい」(第7曲)や、「ライラック」(第5曲)といった作品が含まれています。

作曲家のダンナさんを持つと、こういうプレゼントがあるんですね!

すてきです。

暗示療法

ラフマニノフの作曲家としての成功に決定的に寄与したのは・・・・彼を心配した周囲の人たちの紹介で出会った精神科医のニコライ・ダーリだったのです!救世主現れます!

アマチュアのヴィオラ奏者でもあったダーリは、ラフマニノフに「あなたは素晴らしいピアノ協奏曲を作る」という暗示療法をしたそうで・・・。
これでいいのですかね・・・でも、直るのならいいんでしょうかね。
そして、ラフマニノフは徐々に自信を取り戻していったそう。
良かったですね^^

またこの頃ラフマニノフは、シャリャーピンと連れ立っての演奏旅行で訪れたヤルタでアントン・チェーホフと出会い、親交を深めました。
チェーホフはラフマニノフの人柄と才能を称賛し、大きな励ましを与えたそうです。
落ちている時にこそ・・不思議と周りに人が集まって協力してくれるんですよね^^

神経衰弱

失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完璧な自信喪失となってしまい・・・作曲ができない状態になってしまいました。

その間、彼はサーヴァ・マモントフの主宰する私設オペラの第二指揮者に就き、主に演奏活動を頑張りました。
マモントフ・オペラではフョードル・シャリアピンと知り合い、一生涯の親友になったという素敵な出会いもありました^^
シャリアピンの結婚式では介添人の一人として立ち会った程だったそうです。

この頃に、ラフマニノフの落ち込みを心配していた知人の仲介により、レフ・トルストイと会見するチャンスに恵まれました!
ラフマニノフはシャリャーピンを連れてトルストイの自宅を訪ねて、交響曲第1番の初演以後に作曲した数少ない作品の一つである歌曲「運命」を公表!

しかし・・・このベートーヴェンの交響曲第5番に基づく作品は老作家を不機嫌にしてしまい、ラフマニノフは更に深く傷つくことになってしまったそうです・・・。
不運が続く時はありますよね・・。

挫折

ラフマニノフは、1895年に交響曲第1番が完成!
2年後の1897年にはアレクサンドル・グラズノフの指揮によりペテルブルクで初めて上演されたましたが・・・これは記録的な大失敗に終わりました・・・。

取り分けツェーザリ・キュイが「エジプトの七つの苦悩」に例えて手加減なくこき下ろしたのはよく知られていますよね。この曲は、ラフマニノフが生きている間は2度と演奏されることはなかったそうです・・・。
相当な失敗ですよね・・。

失敗の原因として、グラズノフの指揮がいい加減でオーケストラをまとめ切れていなかったという見込みらしい。そんなの誰でもありますよねぇ・・。

サーチン家の人々はこの時グラズノフは酒に酔っていたと証言しています。
作曲家の身内による証言であることを割り引いて考える必要はあるが、グラズノフの普段の行いからすればあながちあり得ないことではないとも言われているので・・自業自得ですかね。

ピアノ協奏曲第1番

1891年に18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を、大金メダルを得て卒業。
金メダルは通例、首席卒業生に与えられましたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合ったそうです。
同年ピアノ協奏曲第1番を完成させました。

1892年には同院作曲科を卒業。
卒業制作として歌劇『アレコ』を17日間で書き上げ、金メダルを受領しました。
メダルだらけですね。同年10月8日にモスクワ電気博覧会で前奏曲嬰ハ短調を初演。
この曲は熱狂的な人気になり、ラフマニノフの代名詞的な存在になりました。
素敵な曲ですよね^^

翌1893年5月9日には、『アレコ』がボリショイ劇場で上演。
同年11月6日にチャイコフスキーが亡くなると、追悼のために悲しみの三重奏曲第2番を作曲しました。
沢山、活躍していますね。

ズヴェーレフと弟子

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ることになった。彼は父方の伯母の嫁ぎ先に当たるサーチン家に身を寄せ、そこで未来の妻となるナターリアと出会った。この後彼は毎年夏にタンボフ州イワノフカにあるサーチン家の別荘を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となった。

音楽家としての目ざめ

ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。モスクワ音楽院ではアントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。後にはジロティにもピアノを学んだ。同級にはアレクサンドル・スクリャービンがいた。

不良でした・・・

彼は教科書の間にスケート靴を隠して出かけるような不良学生で、12歳の時に全ての学科の試験で落第するという事態に陥った。悩んだ母はセルゲイにとって従兄に当たるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。